体育の授業が苦手だった

一番嫌いな教科が体育だった人

というトピックがガールズチャンネルというサイトで話題になっているそうです。

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一番嫌いな授業が体育だった人

一通り読んでみて、私の感想、というか考えをお話しさせてください。

私は塾の教師ですので、普段の授業ではいわゆる「主要5科目」を指導します。
入試に向けて大切な授業ですから、当然と言えば当然です。

でも、公立高校の入試に関して言えば、「副教科」(この言葉担当している先生からは評判悪いそうです。「実技系科目」と言えと)の重要性も忘れてはいけません。

高校入試における実技系科目の重要性については、いずれお話しさせていただくとして、
実技系4教科「音楽」、「美術」、「保健体育」、「技術家庭」の指導について言わせてください。

保健体育を例に挙げますね。

私の周りの教育者たちと話をしていると、実技系科目の魅力として、
「いわゆる勉強は苦手だけれども、運動能力に秀でた子どもが輝く時間を作ることができる大切な時間」であると聞きます。

もちろん、この意見には大賛成です。

英語の成績はイマイチどころではないけれど、50m走を走らせてみたら大人もびっくりするようなタイムを叩き出す。

「この子、すごいな!」と皆の注目を集める。

そういう時間があっても良いと思います。

 

何をやっても苦手な子どもだっている

ただ、

私が担当している子どもの中には、勉強も、実技系も苦手、
という子は少なくないのです。

つまり、「何をやってもダメ」

こういう子どもにとっては、実技系科目でクラスメイトの前で「恥をかかされる」ことの苦痛は並大抵ではないはずです。

で、私、いつも思うのですが、

「鑑賞眼」を評価することってできないものなのでしょうか。

 

鑑賞能力を評価する

 

例えば、運動の苦手な子がいる。
でもその子どもはサッカーの試合のビデオを見せると、選手たちの動きをそれなりに適切に解説できる。

また、美術について言えば、
絵を描くことは得意ではないけれど、
ゴッホの絵を見て、自分で感じたことを正直に言葉に表すことができる。
そのような力をもっと評価してあげることはできないのでしょうか。

私たちは、ゴッホの絵の評価をしようとするときに、
「でも、自分はそんなに絵が上手くないし…。」と遠慮しがちです。

スメタナの「モルダウ」を聞いて、感じたことを言葉に表そうとしても、
「でも、自分は歌が上手くないし、楽器も弾けないし、ましてや曲を作ることなんてできないし…」
と遠慮します。

この雰囲気が良くないのではないかと思います。
つまり、「じゃあ、お前がやってみろよ。」
という圧力。

この言葉を言われたら、又は言われるかも知れないと感じたら、
「苦手」な子どもは何んも言えなくなってしまいます。

「歌は上手に歌えないけれど、この歌手は声の伸びがとても素敵だし、歌詞に合わせて強弱を上手に使い分けている。」
「絵は下手くそだけれども、この人の空の色は、何だか見たままではなくて、自分の気持ちも映し出しているような気がする。」

そんな感想を自由に言える雰囲気が授業で作られることができたら、素晴らしいのではないかと思います。

私の考える「鑑賞眼」とはこういうものです。

 

自分でやってみろよ、と絶対に言われない環境

 

そして、多少ずれているとしても、子どもが自分の感じたことを頑張って言葉にすることができたのであるならば、
その子の努力を最大限に評価する。

こんな成績評価の仕組みは実現できないでしょうか。

「いやいや、私は日頃から、そのような点も意識して成績に反映させていますよ。」
という先生もおられるかも知れません。

私は、今までの人生であったことはないですが。

少なくとも、小中学生の子どもに対しては、「感じたことや思ったことを、自由に言葉にしてみましょう。」
「その言葉に対して、少なくとも先生は決して否定的なコメントはしません。」

という姿勢でいて欲しいと思います。

先生自身が、口に出さないまでも、
「それなら、あなた自分でやってみなさいよ。」
と思ってしまっているとしたら、

そりゃあ、子どもは委縮して何も言いませんし、
何かを試合や作品から感じ取ろうとはするはずがありません。

「どうせ…。」
って考えてしまいますから。

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